雨城楊枝工房には、今にも朽ち果てんような額が飾られている。

 この額の中に、今、私どもが知る限り、唯一の『ふさ楊枝』がある。

 ゆうに、百年以上の歴史を経て、工房に残されている今の雨城楊枝とは異なるこの『ふさ楊枝』。

この 久留里の地区で生まれ、江戸は東京へと時代は変われども、いまだに多くの人に愛されているこの雨城楊枝と、先人達の思いは同じである。 幾多の危機を迎えながらも、先代が守り、そして伝え、受け継いできた森家がある。

 

 

【誕生】

江戸時代、金龍山浅草寺境内(今の仲見世)では、楊枝店が軒を並べるほどで、その楊枝は、現在のような形のものではなく、浮世絵にもでてくる、ふさ楊枝(柳の片方の先端を、なめしながら、たたいてふさ状にしたもの、もう片方は舌の汚れを落とす『こき楊枝』としても使用)。粋を楽しんだ江戸庶民の生活にはなくてはならない必需品であった。

1923年(大正12年)に起きた関東大震災では、これらの楊枝店も大きな被害を受けた。

雨城楊枝の先代には、こんな逸話がある。

楊枝を納めていた仲買人の多くが、代金の回収に血眼になったこのとき、当時の雨城楊枝職人であった『森啓蔵』も慌てて東京へ向かった。しかし『森啓蔵』は、楊枝店へ代金の回収をしないばかりか、お見舞いとともに、楊枝店の復興への支援を約束してきたのである。このことが、多くの楊枝店から信頼を得るに至ったとのことである。


順風万帆に見えた楊枝にも、時代の流れの中で、二度の大きな危機を迎える。


大正時代に入ると、歯ブラシが台頭し、この『ふさ楊枝』がくちくされ始めたのである。文献によれば、大正末期には、ほぼ『ふさ楊枝』の生産が終焉したとのことである。現在の、雨城楊枝職人の『森隆夫(二代目森光慶)』によれば、祖父の時代には、雨城工房の一室で、ふさ楊枝が作られていたとの記憶があるという。
二度目の危機は、外国産の機械で作られた楊枝の輸入によって、手作り楊枝に割高感によって、消費が激減したときである。
 
『雨城楊枝』という名称の誕生は、昭和22年、目賀田周之介閣下の命名によるものである。
また、現在の細工楊枝としての粋な型は、現在の雨城楊枝職人の『森隆夫(二代目森光慶)』の祖父に当たる『森安蔵』によって、考案されたものである。 
形の由来は、女性の帯止めや髪飾りから、そしてその大きさは楊枝職人としての経験によるものである。

 

 

【【活動】】

活動情報は、 雨城楊枝製作認定者の平田が管理している「雨城楊枝」に特化したFacebook(https://www.facebook.com/ujyouyouji/)で発信しています。
公式の活動や「裏」の活動まで、紹介をしていますので、おいでください。

 

【ご注意

最近、久留里地区で楊枝をお買い求められた商品について苦情を頂くことがございます。 雨城楊枝の販売場所は、久留里城駐車場内「森の里(森林交流体験センター)」と「菓匠なかやま」の二件のみで、その他での販 売物は、雨城楊枝とは何ら関係はございません。